Ayubowan~💕
Ayurvedic Life Salon Punya Minya のMiyukiです。
先日までグループファスティングをしておりまして、現在胃のサイズも小さくなり、甘いものへの欲求も抑えられてスッキリ過ごしております。
「可愛そうと思うのはお前の勝手だぞ!」というような亡き父の声というか、雰囲気というかエネルギー?が私の中に流れてきたのはファスティングの本番初日の朝のメディテーションをしている時でした。
なぜだか、亡くなった犬やおばあちゃん、そして最愛の父の姿が一斉に現れて、涙がものすごい勢いで出てきました。
久しぶりに声をあげて泣きました。
瞑想をしながらワーワー泣きました。
涙の意味はわかりません。
寂しいのか、懐かしいのか、それとも他の感情なのか。
わかりません。
私は7年ほど前に実家で、医者の立ち合いもなく、母と二人で父を看取りました。
父は膵臓癌の闘病の末に最期は「苦しんで亡くなった」ので、「楽にさせてあげれなかった後悔」が残っております。
「可愛そうな最期だった」
父の最後の時を思い出すことがしばしばあります。
しかし、父からしてみれば、私たちが思うほど苦しくなかったのかもしれないです。
魂が今世での傷んだ体から抜け出し、楽な世界へ向かう喜びの瞬間だったのかも知れません。
「俺の死を可哀想と思ってくれるな」そんな声が聞こえた気がしています。
父のことばかりではありません。
例えば、体に障がいのある方を見た瞬間に不自由で「可愛そうな人」と思ってしまいがち。
それはこれまでの経験や知識から基づく勝手な想像から瞬時に感情が生まれるので、
まさに自分の見ている対象に対しての勝手な感情です。
冷静に考えれば障がいもその人にしてみたらもしかしたら「障がいなんて思っていない」「障がいを自分を活かす武器にして頑張っている。活躍している!」「障がいがあるから感じることのできる幸せ」など私には計り知れないことが沢山あるでしょう。
だから。
あの日のメディテーションで気付かされたことは、
「可愛そう」という感情を簡単に持たない。
ということ。
うまく言えないけれど、「可愛そう」という言葉を発する側と、言われる側との間に「可愛そう」を通して位置関係、上下関係みたいなのが生まれるような気がします。
「可愛そう」を発した側は、「自分は可愛そうな人ではない」みたいな。
わかりますでしょうか。説明が難しいです。
父の死は本当に呆気なかったです。
嘘のように、夢のように、あっという間の瞬間に息が止まり、瞳孔が開いてきました。
さよならもありがとうもちゃんと声を出して言えなかったくらいでした。
死はあっけなく、しかしとても尊いものと感じています。
7年経った今でも私にメッセージを送ってくれるんだなぁ。と思いました。
ファスティング中の出来事としてあの日の不思議な父からのメッセージをここに残しておこうと思います。
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